朝―長年の習慣というものは、そう簡単に抜けるものではない。やっぱり、五時前には目が覚めてしまうのだ。だが、しごき捲くる先輩を殴って部活を辞めてしまったので、もう朝練にいく必要はなくなった。 
                           代わりにロードワークをすることにした。走り込みは絶対必要だ。地味なトレーニングも技術の向上につながるとなれば全然苦痛ではない。そういう努力は惜しまないほうだった。 
                           自宅マンションを出て、国道沿いに小高い丘の上の公園を目指す。軽い足取りに、額に掛かる短い前髪が跳ねる。まだ子どもっぽさが残っている顔立ちが、次第に赤味を帯びてくる。式場和巳は、早朝の清々しい空気の中を走りながら、一昨日の朝のことを思い出していた。 
                           あの朝、目覚めたとき、カーテンの隙間から細く光が差し込んでいた。横にいたオーナーは、まだ眠っていた。静かな寝顔だった。その首筋や胸に赤い痕がたくさんついていた。背中の引っかき傷だけではすまなかったのだ。恥ずかしくて、明るいところで顔を見られたくなかった。『帰ります』とメモを残して、逃げてきた。 
                           マンションの前の道路がバス通りで、その当たりが、『ベイスクエア』の高級ホテルやショッピングモールがあるウエストスクエアに隣接しているエリアとわかった。 
                           バスに乗って、最寄の駅まで行った。自宅近所のこの公園でパンをかじって時間を潰した。夕べ泊まっていった母親の男が帰った頃を見計らって戻った。母親もいなかった。その夜帰ってきても、外泊先も聞かなかった。その無関心さが今はありがたかった。 
                           きっと忘れられない一夜だ。我慢できないほど痛かったことは忘れていた。 
                           公園までの石畳の坂を駆け上がる。 
                          「はっ、はっ」 
                           短くブレスする。そのままフットワークに入る。軽快に、俊敏に、動く。一本、一本、体にリズムを刻み込んでいく。汗が体を流れるのも快い。二十本、三十本。熟してから、ダッシュする。充分に繰り返していった。 
                           さっとシャワーを浴びてから朝食を腹に詰め込んで登校する。県立葛木高校。女子バスケットボール部と陸上部が県内トップクラスという以外は、中の上程度という平凡な高校だ。ハバをきかすような不良連中もほとんど見当たらない。女子もルーズソックス履いたり茶髪にしているくらいだ。 
                           一緒に校門に吸い込まれる連中を見下ろしながら、和巳がニッと口端を上げた。 
                          …知らないよな、こいつら、あんな凄いコト… 
                           すっかり大人になったような気分だった。 
                           どうせいつも聞いていない授業だ。どう仕掛けてやろうか…そればかり考えていた。昼休み、飯もそこそこに、三階の三年の教室に向かった。 
                           まずは、一番手前の一組をヒョイと覗き込む。さっと見回したが、いない。すぐ次へ行こうとした。その背中に声が掛かった。 
                          「式場!」 
                           聞き覚えがある。 
                          「…キャプテン」 
                           男子バスケット部のキャプテン野口だった。野口は一七〇センチそこそこの、少しふっくらとした体型のポイントガードだ。和巳が揉めたエースセンター能勢に頭が上がらない情けないキャプテンだ。一年の間でさえ、バカにされていた。 
                          「いやぁ、今おまえのとこに行こうと思ってたんだ。おまえのほうから来てくれるなんて…」 
                           今さら何だ。 
                          「沢口サンって何組ですか?」 
                           意外なことを聞かれて、野口が面食らった。 
                          「えっ!沢口?三組だけど…」 
                          「どーも」 
                           さっさと肩を回す。野口が呆気にとられて突っ立っていた。 
                           三組に入る。窓際に沢口が座っていた。 
                          「エア・マックスまだ在庫あるから、土曜の午後にでも来いよ。少しは安くしてやるよ」 
                           茶の前髪を掻き上げて、牛乳パックのストローを咥えた。アバタ面の男子が握り飯をほお張る。 
                          「でも、プレミアついてて高いからなあ、少しくらい安くしてもらっても…」  
                           急にアバタ面が途切った。沢口が何かと振り向いた。和巳が冷たい目で睨んでいた。 
                          「沢口サン…」 
                           和巳が押し殺した声で呼んだ。沢口は震えた。 
                           和巳は沢口を屋上に連れ出した。柵の金網に押し付けた。 
                          「よせよ、何だってんだよっ!」 
                           沢口が痛そうに顔をしかめた。和巳が唇を歪めた。 
                          「俺…また、あそこでしたいんだ、スト・バス」 
                           沢口の体がピクッとなった。驚き、戸惑い、くるくると表情が変わって面白い。 
                          「一回きりっていっただろ?」 
                           和巳が顔を近づけた。 
                          「能勢サン殴って部活辞めちゃったから、あそこでしたいんだ」 
                           沢口が首を振った。 
                          「いいじゃん、メンバーに入れてくれよ、どうせ一人足りないんだろ?」 
                           沢口がおびえた。もっといじめてやりたくなってくる。 
                          「式場」 
                           ふいに呼びかけられた。 
                          「奥住サ…ン!」 
                           沢口を放す。沢口が肩を押さえて奥住に寄った。 
                          「ったく、バカ力だな!」 
                           沢口は助っ人が来たとたん、威勢がよくなった。バスケのほうだけでなく、喧嘩も度胸もたいしたことないヤツだ。 
                           奥住が優しく微笑んだ。 
                          「能勢を殴ったことなら心配しなくていい。あっちはなかったことにしてくれるはずだ」 
                           奥住はどう見ても汚いことなどには縁がないように見える。 
                          …でも…客人としてるんだ。俺とオーナーがしたようなこと… 
                           思い出されてしまう。顔が火照ってきた。取り繕うように下を向いた。 
                          「まさか、あれだけ派手にやったのに」 
                          「フットワークでしごかれたんだろ?それはイニシエーションって言って、葛木バスケ部の伝統なんだ」 
                           何のことだ? 
                          「『通過儀礼』っていうんだけど、その年の新入部員のトップワンを徹底的にしごいて、中学の時のハンパなプライド捨てて、一からやり直す根性があるかどうか試すんだ。二週間後に部に残っていたら、無事通過したことになって、将来葛木のエースとして認められることになっている。一年からレギュラーにもなれるんだ」 
                          …あのしごきにそんな理由があったなんて… 
                          「そのうち、『フォロー』って言って、誰かが戻るように説得に来るから、そうしたら、そいつとみんなの前で頭を下げればいい。それで大丈夫だ」 
                           和巳が黙って見下ろした。奥住が整った眉を寄せた。 
                          「どうしたんだ?」 
                          …ほんとうは部活に戻れたって?今さらそんなこと… 
                          「俺…オーナーにあそこでやりたいって言っちゃったんです。だから…」 
                           ふたりが息を飲んだ。 
                          「なっ!?」 
                           沢口が和巳に詰め寄った。 
                          「おまえ、あそこでスト・バスやんだけじゃねぇって知ってんのか!」 
                           和巳が沢口の襟首を掴んだ。沢口がぎょっとして仰け反る。 
                          「わかってるよ、勝ったメンバーが客人の相手するんだろ?けっこう、面白いじゃん、そういうの。ただゲームするよりさ」 
                           もう後には引けないのだ。だったら、楽しんでやろう。どうせ、部に戻ったとしてもあの能勢や野口とではたいしたチームではない。それより奥住ともっとプレイしたい。(沢口は数合わせ)室生とも戦って見たい。和巳にはそれで十分だった。 
                           沢口が呆れたように目を見張ってから、笑い出した。そして、和巳の肩に手を回した。 
                          「そーかぁ、おまえ、わかってるじゃん。おまえが入ってくれれば全戦全勝だ、頼りにしてるぜ」 
                           奥住はほんの少し悲しそうな目をしていたが、すぐに笑みを返した。 
                          「俺もおまえとチーム組めるなんてうれしいよ」 
                           和巳も嬉しかった。 
                           ちょうど昼休みが終わった。急いで階段を降りながら、和巳が奥住に尋ねた。 
                          「練習はどうしてるんですか」 
                          「俺は予備校だし沢口にはバイトがあるから、月・水・金だけあそこに行って練習してるんだ」 
                           チーム練習は週三日か。ほかの日は個人練習するか。 
                          「じゃ、今日は練習日ですね」 
                           あのハンバーガーショップでと約束して別れた。和巳は途中で会う教師ごとに怒鳴られながら、猛ダッシュで自分の教室に戻って行った。 
                           授業終了のベルは再び解放の音に戻っていた。教科書を鞄に突っ込んで昇降口に向かった。だが、階段の下で呼び止められた。女子バスケ部キャプテン一八五センチの橋ヶ谷だった。茶色の紙袋を差し出してきた。 
                          「これ、洗濯しておいたわ、今日から出てらっしゃい」 
                           開けるまでもなく、先日能勢に叩き付けたTシャツだろう。むしり取ってそのままごみ箱にほおりこんだ。 
                          「なにするの!」 
                           橋ヶ谷が拾ってきた。 
                          「もう辞めたからいらないです。捨ててください」 
                           橋ヶ谷が肩を掴んだ。異様にむかつく。橋ヶ谷は厳しい目をしていた。 
                          「辞める必要なんかないのよ。一緒に体育館に行きましょう」 
                           これがフォローというやつなのか。橋ヶ谷の手を払いのけた。 
                          「行く気ないです。人と約束あるから」 
                           橋ヶ谷がすっと前を塞いだ。速い。避ける間もなかった。それどころか、前に回ろうとしたのもわからなかった。 
                           本当に女か、こいつ…。 
                          「それじゃ、頼まれた私が困るのよ。とにかく一度能勢君たちの話しを聞いてやって。辞めるかどうかは、それから決めても遅くはないでしょう」 
                           もう遅いよと言いかけてやめた。ここで断ってもまた来るかもしれない。今日行って能勢に辞めるとはっきり言ってやればそれで終わりだ。 
                         奥住と沢口は三年用の昇降口で一緒になった。 
                          「あれっ、あいつら」 
                           沢口が素っ頓狂な声で前を指差した。橋ヶ谷と和巳が歩いていた。体育館に向かっているようだ。 
                          「あいつ、何か余計なこと、いわなきゃいいけどな」 
                           沢口が心配した。後を追うことにした。案の定、体育館の中に吸い込まれていく。五つの扉は全部閉まっていた。植え込みの影の下付き窓から覗き込む。体育館の中央に能勢が腕組みして立っていた。 
                          「能勢…」 
                           奥住が声を漏らした。館内は、能勢と野口、橋ヶ谷の三人だけだった。野口が和巳に駆け寄った。 
                          「よかった!来てくれたんだな!」 
                           和巳はその野口を無視して能勢の前まで行った。能勢を睨みつけた。能勢も眼飛ばす後輩に厳しい表情をしていた。和巳がキツく言った。 
                          「橋ヶ谷キャプテンの顔立てて一応来たけど、バスケ部に戻る気はないです」 
                           野口が和巳の肩を叩いた。 
                          「そんなこと言うなよ。あの扱きだって決しておまえが憎いとか、潰そうとか、そんなつもりじゃなかったんだし」 
                           野口がたらたらと説明している。和巳が能勢を睨んだまま、口を挟んだ。 
                          「イニシエーションとかのことだったら、知ってますよ」 
                           野口が和巳の前に回った。 
                          「沢口から聞いたんだな。だったら、わかってるだろ?おまえに期待してるんだよ。戻ってくれよ」 
                           和巳がくるっと肩を回した。 
                          「あの扱きが何であっても、関係ないです。辞めるって決めましたから」 
                           ようやく能勢が口を開いた。 
                          「俺のせいか、俺が殴ったからか?」 
                           和巳が振り返った。能勢の太い眉が寄っていた。ごちゃごちゃとうるさい。いちいち答えなければならないのがわずらわしい。 
                          「そんなんじゃないです」 
                           能勢が急に頭を下げた。 
                          「能勢!」 
                           野口が驚いた。外のふたりも同様だった。能勢が他人に、しかも後輩に頭を下げるとは。信じられない光景だった。 
                          「済まなかった。つい、力が入ってしまって。でも、おまえの実力を認めたからこそ、葛木の『柱』になって欲しくて、やったんだ。頼む、戻って来てくれ」 
                           痛いほどの沈黙が流れた。和巳がそれを破った。 
                          「俺、もうバスケに興味なくなったんです。だから辞めるンです」 
                           素っ気なく言い切る和巳に能勢も野口も返す言葉がないようだった。出て行こうとしたとき、橋ヶ谷が呼び止めた。 
                          「待って、式場君」 
                           …今度は何だよ。 
                          「君が入部した日から朝練してたの、用務員さんから聞いたわ。夜あれだけ扱かれても、次の朝、六時半からシュート練習、並みの根性じゃできないわ。それだけ打ち込んでいたのに、そんなに簡単に捨てられるはずがない。いったい、戻るのに何が障害なの」 
                           ドキッとした。答えられるはずがない。だが、この人を納得させる必要なんてないはずだ。 
                          「バスケは暇つぶしにやってただけです。面白くなくなったから辞めるんです。もういいでしょう、ヤル気ないんだから」 
                           だが、橋ヶ谷はさらに容赦なかった。 
                          「私に止められたままでいいの?」 
                           シュートをブロックされた屈辱が怒りのうねりとなって蘇ってくる。唇をきつく噛んだ。 
                          「どーでもいいです、そんなこと」 
                           体育館を出た。そこに心配そうな顔の奥住と沢口が立っていた。沢口が鼻先で笑った。 
                          「ほっとけ、あんなやつら」 
                           和巳もうなずいて、ふたりと一緒に歩き出した。後ろで大きな音がした。 
                          「式場!」 
                           能勢の声に和巳が少し振り返ったが、三人とも立ち止まらなかった。野口が不可解そうに首を傾げた。 
                          「あれ、奥住…沢口とは友達だって聞いてたけど。大体、なんで式場と沢口が知り合ってるんだろ」 
                           困惑して立ちすくんでいた能勢の拳が震え出した。橋ヶ谷が眉間に谷間を刻んでいた。 
                          「式場君、なんであそこまで意地を張るのかしら、ヤル気がなくなったなんて…信じられないわ」 
                           能勢が拳を扉に叩き付けた。グワァンと扉が響いた。 
                         
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