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皮膚(はだ)(スプラッタSF)

 水滴が、頬の皮膚の上で弾け飛び、砕け散った。
「ナ・・・ニ?」
  ややビブラートのかかった無感動な声。再び水滴。
「この感覚、覚えてないかい?」
 男の茶水晶の瞳が動き、彼女を凝視した。彼女は、瞬き一つせず、黙っていた。男は首を傾げると、彼女が横たわっているベッドの脇にあり台の上の紙の束を取り上げた。一枚づつ、反芻するように読み返し、少しの間考えこんでいたが、やがて、病室から出ていった。
 残された彼女は、身じろぎもせず、白い天井を見つめていた。しかし、実際は目の網膜に写ってはいても、それが何であるかはわからなかった。彼女は、ゆっくりとぎこちなく左手を動かすと、まだ濡れている頬を指先で触れた。
「・・・・」
 その感覚は、言葉にならなかった。確かに何かなのだが、そして、それを知っているはずなのだが、言葉にならなかった。彼女の意識の中には、感覚に対する判断を下す言葉が見つからなかった。
 彼女は、懸命に意志を集中し、喪失した言葉を蘇らせようとしたが、激しい頭痛に断続的に襲われ、果たせなかった。

 「彼女の場合・・・」  と、切り出したのは、ドクター・マキタであった。彼は、やや後退気味の額をなで上げ、円卓上にプリントアウトされたカルテを投げ置きながら、正面の席のトレーナーを見た。
「つまり、一種の失語症なのだな。それも、感覚関係用語に限ってのだが」
  トレーナーは、まだ若く経験も浅かったが、マキタの判断には納得がいかなかった。
「彼女の感覚機能に欠陥があるのではないでしょうか?」
 彼は、はっきりと自分を示した。彼女を訓練するのは自分なのである。しかも、感覚関係言語に限って失語症になるとは、考えられなかった。マキタは、何も言い返さなかった。彼の専門はハードウェアであり、彼女のそれは完全であるという自信があった。それをどう機能させるかは、ソフトウェア運用を専門とするトレーナーとチェッカーの仕事であるはずだった。
 マキタの左隣りに座っていたマスター・トレーナーイイノが、トレーナーに言った。
「ニシワキ、チェッカーヤシロの報告から判断してもわかると思うが、彼女の感覚機能は正常のはずだ。恐らく、彼女は自分がどういう状態であるかが認識できないでいるのだと思う。これは、あくまでも私の意見だが、ままあるケースではある」
 ヤシロの名を言われて、ニシワキは心の中で舌打ちした。チェッカー沙羅・ヤシロは、彼の恋人だった。イイノが、わざと彼女の名を出してきたのだと勘繰った。
「ショックによる記憶喪失かもしれない。何しろ彼女は、脳を除いて全て機械の体になってしまったのだし、拒絶反応が起きている可能性もある。とにかく、もう少しリハビリテーションを続け、チェックを厳重に行なうようにしていこう」
 当を得たイイノの言葉に樹郎・ニシワキもうなずかざるを得なかった。
 
    ジュロウ樹郎は、サイボーグ・リハビリテーション・センター(S・R・C)の一級訓練士として、重度のサイボーグの術後リハビリテーションを行なっていた。彼にとっては三人目である今回の患者は、今までよりも重度が重く、脳以外は全て機械という十八才の少女だった。彼女は、月連絡宇宙船<ディアーナ・シャトル>の着陸事故の際、死亡し、脳だけは奇跡的に蘇生したが、彼女自身は失われてしまったのである。
 S・R・Cの中庭には、大きな池があり、その中央に噴水があったが、今は止っていた。樹郎は、車椅子に彼女を乗せて、中庭にやってきていた。静かな昼下がりである。彼は池の側に椅子を止めると、池の端に腰を降ろし、両手で結んで水を汲んだ。そして、彼女の顔にそれをかけた。
 ピチャ!!
 しかし、彼女は瞬きもしなかった。雫が頬から顎へと流れ、顎の先で玉となって胸元に落ちていった。彼女は無表情の下で、何かを形造ろうとしていた。感じてはいるのだ。それが何か。
 樹郎は眉をしかめて、彼女の前に立ち、首に掛けていたタオルで彼女の顔を拭った。
「気長に我慢強くやるしかないようだな、亜夢」
 亜夢は、ピクンと体を痙攣させた。
「何だい?」
 彼は尋ねた。彼女は椅子の肘掛けに掛けていた両手を上げて、両頬を包み込むようにした。そして、余韻を確かめるような微妙な指の動きを見せた。樹郎の視線が鋭く彼女の動きを捕えた。
 彼は、亜夢を車椅子から降ろすと、池端の膝を付かせた。その時、中央の噴水が、勢い良く水を噴き出し、向かい風に乗った飛沫が二人の上に降りかかってきた。 「冷たいな!」
 樹郎が、短く吐き捨てた。亜夢は、再びピクンと動き、顔を上げた。
「ツ・・・メタ・・・」
 彼女はつぶやいた。樹郎は、顔に掛かった飛沫を拭いていたが、その声を耳にして、彼女の肩を掴み、二度三度と揺さぶった。
「もう一度! 言ってみるんだ!」
 彼女の焦点の合わぬ両眼を天に向けた。その無機質な瞳に青空の白い雲が投影されていた。
「ツメタ・・・イ」
「そうだよ、そうなんだよ! これは『冷たい』って言うんだ」
 樹郎は、彼女が感覚関係言語を発したことに興奮して叫んだ。

   顔の表皮にかかった水滴が体温で気化し、皮膚の温度が下がったことを感知した。しかし、亜夢の認識は、どろどろと融解した状態にあり、深く澱んだ記憶の上を、今やゆっくりと逆巻き始めた。亜夢は人工皮膚が感知した感覚と生身の体で経験した感覚を照合しようと努めた。融解した認識が、激しく渦巻き出した。その渦は、次第に上昇し、全て巻上げていく。その時、亜夢の聴覚が捉えた言語が、閃光となって彼女の内世界を切り裂いた。
・・・ツメタ・・・イ!!
 認識の確立! 融解した認識が凝固し、一つの感覚に、概念が与えられたのであった。

 亜夢の記憶障害は激しかった。およそ幼児期の記憶はなく、近年のことも、現在のことも、現実と想像の区別がなく錯綜していて、彼女を一層混乱させていた。彼女は、今だに自分が置かれている状態を完全に把握し切っているとは言えなかった。事故に会ったことも覚えいなかったし、自身がサイボーグであるということも理解していなかった。彼女は、とうに失われたはずの肉体の感覚を今だに記憶していて、認識の凝固が起こる度に、メカニズム機械の反応としてではなく、生身のものとしてそれを想起するのである。従って、過去の経験による先入観から、彼女の感覚に対する判断は、ひどく固定的でしかも不正確だった。
 こんにち今日、いかにサイバネティックが発達し、ハードウエアが革新されようとも、人間とまったく同じ五感を持った器官を造り出すことは不可能に近かった。視覚・聴覚は、かなり人間のそれに近いか、もしくは、それ以上のものが望めるが、しかし、それでも、微妙な色彩の違い、音調の判別などは出来ない。また、触覚・嗅覚・味覚については、非常に限定的にしか知覚することができない。触覚は、各感覚ごとに段階分けされており、嗅覚・味覚についても、指定された合成食物、薬品等にメカニズム機械が反応するようにプログラムされているにすぎないのである。
 だが、彼女は、合成コーヒーを愛飲していたコロンビアだと思い込んでいるし、嗅ぎ分けられるはずのない薔薇の香りを芳ばしいといい、感じるはずのない、むずがゆさを訴えたのである。そうした彼女に、正しい知覚を与えるのが、トレーナーの任務だった。それには、まず、メカニズム機械の反応としての視聴覚と、かつて認識した概念との、正確な結合を可能にする必要があると判断し、樹郎はのサーキット・トレーニングによって、全身のメカニズム機械と脳細胞の間に、円滑なフィードバック機構を作り上げていくことにした。
「ジュロウ!」
 亜夢は、トラックを走りながら、彼に手を振った。樹郎もそれに応え、彼女が走り寄るのを待った。呼吸一つ乱さず、汗も掻いていないが、全体の雰囲気から息せききって駈けてきたのが、不思議とわかった。
「秒速二十メートル」
 樹郎が、ストップウォッチを見ながら言った。
「ソ・・・ナニ、ハヤ・・・イ?」
 亜夢の声は、勿論人工的に造った声である。微妙な感情を含ませることはできない。だが、樹郎の耳には、彼女の困惑した感情が含まれているように聞き取れたが、気のせいと思っていた。
「いいじゃないか、速くったって。君は誰よりも速く走れるし、誰よりも遠くまで飛ぶことができるんだよ。素晴しいことじゃないか」
 樹郎は、微笑みながら、彼女を見つめた。亜夢のガラスの眼には、樹郎の姿も色領域をブロック分解し、それを一つの画像に統一したものとして写るはずであった。しかし、彼女の認識は、今彼の暖かい微笑によって、それを生身の男として捕えたのである。勿論それは、彼女の過去の記憶が混入した錯誤の姿形ではあったが。
 二人は、並んでS・R・Cの建物の中に入って行った。彼女の病室のあるD棟へ行こうとしたとき、五、六人の男たちが一個の塊となって、彼等の方に走ってきた。
「やっ、いたぞ、彼女!」
 男の一人が怒鳴りながら、ハンディカムのスイッチを入れて、撮影を始めた。
「あれ!? ほんとぉに彼女!?」
「こんなもんじゃないのぉ? あれだけの大事故で助かったとなるとさぁ」
 他の男たちも口々に喚きながら、二人に向かってマイクを突き出した
。 「何の真似です!! いったい誰の許可を得てここに入ったんですか!」
 樹郎は、亜夢を自分の体で隠すと、男たちに詰問した。背の高い男が、へらへらと笑って言った。
「まぁ、そう堅いこと言いなさんなって。あたしたちは、彼女にちょっとインタビューしたくてねぇ、なあに、ご迷惑はかけませんから」
 ノッポの男が言い終わるや否や、首から大きな星形のペンダントを下げている男が横から、マイクを彼女の目の前に突き出した。
「ねぇ、どう、あの事故からの生還のご感想は?」
  ノッポの男も続けた。
「『白い妖精』亜夢・ヒダカ、奇跡の生還! カムバック復帰なるか!?なんてね、話題性十分よ」
 樹郎は憤慨して怒鳴った。
「彼女はまだ完全に回復していないんだ!! それにもう、歌は!」
 言いかけた彼の腕を亜夢が掴んだ。
「モ、ナオタワ・・・ウタダテ、ウタエルモ・・・ノ」
 その声を聞いた男たちは、瞬間凍り付いたようになり沈黙した。亜夢は笑おうとして、小首を傾げながら、肩を小さくすくめると、乾いた口を開いた。
「ホシノウミ、ワタシハコブ・・・ネウカベテ、
 ぎゃらくし・ほら・・・ずんメザシ
 ユメニミタアナタノモトヘ  
リュウセイノナミ、コブネハユレル
 ワタシノココロ、アナタノモ・・・トヘ・・・」
 それは、彼女のヒットナンバー『ギャラクシイ銀河ホライズン水平線』だった。しかし、まったく旋律がなかった。
「お、おい、これ、本当に亜夢・ヒダカ?」
「だとしたら、こりゃあ・・・」
 男たちは驚愕した顔を見合わせた。亜夢は虹彩のない瞳を彼等に向けた。男たちは一、二歩と引き下がり、異形のものを見るような顔で、彼女を見た。
「あの噂、本当だったのねぇ」
 ノッポの男が、樹郎の方を見た。樹郎は、彼を無視し、亜夢の手を取ると彼女の耳元に口を近づけて囁いた。
「さあ、あちらへ行こう。」
 その声に誘導されるように動き出した彼女に、ノッポの男が呼びかけた。
「歌も歌えないし、笑えもしないんじゃ、カムバックどころじゃないねぇ」
 亜夢は振り返った。
「ワ・・・タシ、ウタエル! ワ・・・タシ、ウタ、ウタタジャナイ!!イマ、ウタタジャナイ!!」
 彼女は怒鳴った。能面のように唯一つの表情で、音量だけが大きくなっていく。男たちは、青ざめた表情でゆっくりと後退していったが、そのうちの一人が背を向けると、一斉に小走りに駈け去っていった。その後姿に向かって亜夢が叫んだ。
「ワタシ、ウタエル! ワタシ、ワラエル! ワタ・・・シ、ワタシ!!」 
「落ち着くんだ! 亜夢! 亜夢!」
 樹郎が亜夢の両肩を掴んで、激しく揺さぶった。
「ジュロウ・・・ワ・・タシ、ウタタワ、ワラタワ、すてえじトオナジヨニ・・・」
 亜夢のガラスの眼の奥に一瞬きらめくようなものが認められた。しかし、彼はそれが考えられるあるものだとは信じていなかった。
「そう、君は歌ったし、笑ったよ。ただ、彼等には見えなかっただけさ」
 樹郎は少しかがみこんで、彼女の左頬に軽くキスした。
「ぼくには見えたよ、『白い妖精』亜夢のステージ姿が」
 彼女のひやりとする手を取った。
「今度は、四肢機能のトレーニングだ。早くいかないと、窓際のいい席が取られてしまうよ」
 亜夢は、小首を傾げて樹郎を見つめ、引かれるままに彼について行った。

 樹郎の休暇中は、トレーナー比呂・フジムラが亜夢の担当となったが、二人の方法論は著しく異なっていた。比呂の指導態度はあくまで事務的で紋型だった。だか、適切だった。
「もっとパワーを上げることが出来るはずだ。何故全力を出さないんだね?」
 比呂は、たった七十キロしか示していない握力計の針を指しながら、苛立たしげに言った。亜夢は、訓練室の床に座り込んで、下を向いていた。
「ヒダカ!」
 彼女の反抗的な態度に比呂は腹を立てた。
「間もなく君は、どこかの開発基地に配置されることになるし、そうなったら、こんなお上品なことはやってられないんだからな! 今のうちに、きちんと力をコントロールする訓練をしておかなければならないんだぞ!」
 亜夢は、面をあげて、比呂を見上げた。
「ワ・・・タシ、カイハツキチナカニイカナイ、ワタシ・・・カシュダモノ」
 比呂は呆れてしまった。
「ヒダカ、君はもはや生身の人間じゃないんだぞ」
 亜夢は黙って比呂を見つめていた。
「君は、ディアーナ・シャトルの着陸事故で一度死んだんだ。だから、君の生前の姿を写して造ったメカニズム機械の体に脳を移植して蘇らせたんだ。そこのところを忘れて貰っては困るよ。君の体は造りものなんだから」
 亜夢は、勢いよく立ち上がった。
「ツ・・・クリモノテ、ドユコト?」
 比呂は憤然として、彼女の手をひっぱって訓練室を出、別棟にある点検ブロックのなかの一室に入った。
「ここに立ってるんだ!」
 比呂は、亜夢をその部屋の中央に立たせると、部屋の奥にある小さな扉を開いて、その向こうに消えていった。

『ヒダカ! 今から君の透視図を投影する。よく見るんだな! 』  天井から、スピーカーを通して比呂の声が聞こえてきた。急に室内の照明が消え、彼女は不安になって周囲を見回した。
 いきなり正面の壁が輝き、人間の形が浮かび上がってきた。それが、はっきり写し出された瞬間、亜夢が悲鳴を上げた。
「きゃあー!! 」
『これが、現実なんだ!』
 比呂の声が無情に響く。彼女は両腕を振り上げ、輝く壁に向かって振り降ろした。
「イヤァー!」
 スクリーン壁が破壊され、ガラスの破片が砕け散った。壁の内部の機械が露出し、火花が散る。亜夢は、扉に向かって全力疾走し、両腕で額を覆って、突進した。レントゲン室の扉が突き破られた。
『ヒダカ!』
 
 樹郎にとって比呂は先輩格だったが、遠慮はしなかった。
「何故彼女に透視図を見せたんです!」
 比呂は樹郎の態度に憤慨して、怒鳴り返した。
「だいたい、君の訓練のやり方に問題があったんだからな! 今さらとやかく言われてもね!」
「少々時間がかかっても、彼女に過度のショックを与えないようにして訓練してきたんです。それをあなたはぶち壊してくれた!!」
 樹郎は、テーブルを叩いて立ち上がった。チーフ・トレーナーイイノが険しい表情を見せた。
「彼女はCD九五型サイボーグとして、作られたんだ。CD九五型が宇宙開発用である限り、彼女をサイボーグワーカーとして訓練し、開発基地に送り出さなくてはならない。それが我々トレーナーの任務だ」
 DC九五型は、宇宙開発用のサイボーグのなかでも、ハイレベルの能力と装備を備えている。脳だけが生体というケースのみに適応されるタイプなのである。しかも、需要が高く、貴重なワーカーだった。
 樹郎は、イイノを見据えた。
「分かっています、しかし、彼女の精神状態が不安定なのでは、効果的な訓練は望めません。ですから、まず、彼女の信頼を得ることが先決だと・・・」
 比呂が鼻先で笑った。

「おだてと色で得るわけか!」 「フジムラ!」
 樹郎が比呂を睨み付けて、非難げに叫んだ。イイノが溜め息をついて、立ち上がった。
「とにかく、ニシワキ、君に一任する」
 彼は、樹郎をうながして、部屋を出た。
 廊下を歩きながら、イイノは、樹郎を心配そうに見た。
「『功』をあせる気持ちはわかるが・・・」
「『功』ですって!?」
 樹郎は、否定的に返したが、イイノの指摘は当たっていた。DC九五型をうまくトレーニングできれば、トレーナーとしての功績がアップする。他のタイプの比ではなかった。
 イイノは、樹郎の肩を叩いた。
「ヒダカを見に行ってやりたまえ」
 そう言って立ち去る後姿を見送ってから、樹郎は亜夢を監禁してある特別房へ向かった。

 亜夢の心の中を真実の嵐が吹き荒れた。彼女は知った。歌うことも、笑うことも、そして、優しい微笑みや愛撫を受けることも、もはや叶わぬことであると。
 その瞬間、彼女の意識は沸騰し、彼女の精神を危うくもかろうじて支えていたものが消えてなくなり、空虚となった。そして、その空虚を埋めるように、理性の下に隠されていたどろどろとした黒いものが溢れ出て、彼女の意識を覆い、すっかり満たしてしまった。 彼女は、彼女に栄光と賛美と自負心を与えていた美声と美貌を一遍に失い、その代わりに最も忌むべき作りものの体になってしまったのである。それら失ったものに対する異常な・・・いや、むしろ当然であろう妄執が、彼女の理性を破壊し、膿のように吹き出てきたのである。
 彼女は、それら失ったものをどうしても得なければならなかった。それらを得る事が出来れば、自分は再びあの銀色に輝くステージに立ち、『歌う天使』『白い妖精』として華やかなスポットライトを浴び、限りない衣装の流れ、満天の星の如き宝石の数々、拍手と口笛、熱狂的なファンの声援と陶酔した眼差し、身を埋めるほどの花束とプレゼントの山、それらを一身に受けることが出来る。そして、彼も自分のものに・・・。

「おとなしくしてるじゃないか」
 コントロール室のモニターを見ながら、樹郎が沙羅に尋ねた。沙羅は真っ青な瞳を曇らせていた。
「今のところはね。でも、レントゲン室の扉を破って、センター内を走り回ったときはどうなるかことかと思ったわ、並みじゃないのよ、彼女のパワーって」
 樹郎は、頷いた。沙羅は、自信家の樹郎が自分の信念を曲げたりはしないことはわかっていたし、彼の技術も信頼していたが、やはり不安だった。
「大丈夫? 相手は狂いかけているのよ、ううん、もう狂っているんだわ、何をするかわからないのよ」
 樹郎は、沙羅の長い髪を一房掴んで口付けした。
「心配しなくてもいい」
 笑いながら、小さく手を振り、特別房への扉を開けた。
 灰銀色の壁に囲まれた室内の中央に、亜夢は座っていた。相変わらずの無表情な顔からは、何一つ感情的なものは感じられなかった。樹郎は、一応用心しながら、優しい声音で呼びかけた。
「亜夢・・・ぼくだ・・・」
 うなだれていた亜夢は、パッと頭を上げ、樹郎を見た。
「ジュ・・・ロウ」
 彼は、彼女が自分を識別できたことに安堵した。そして、ゆっくりと彼女の方へと歩を進めた。
 すると、彼女がいきなり立ち上がり、両手を広げて小走りにやってきた。
「ジュロウ!」
 彼は一瞬我が眼を疑った。例の彼女の無表情な顔と二重写しになって、泣き出しそうな顔で走ってくる少女の姿が見えたのである。しかし、それも束の間のことで、彼は自分の思い込みによる錯覚としてしか認識しなかった。
 樹郎は、かなり加速のついた百キロ以上ある体重を受け止め、ひっくり返ってしまった。
「亜夢!!」
 胸を押し潰されて、苦しげな息の下から必死に彼女の注意を促したが、聞こえてはいなかった。
「亜・・・夢・・・」
 樹郎は、彼女の無機質な瞳が淫らな色に染まっているのを感じ取った。
「アナ・・・タ、ホシ・・イ!」
「ばか・・・な・・・」
 彼は、意識を失いかけた。その時、コントロール室から、沙羅が飛び込んできた。
「樹郎!!」
 彼女は、衝撃棒を手にしていた。
「樹郎から離れて!」
 沙羅の憎悪に固まった瞳が鈍く光り、衝撃棒の先を亜夢の頭に付けて、スイッチを押した。
「ぎゃっ!!」
 亜夢が頭を抱えて、樹郎から離れた。沙羅が、樹郎の側に膝を付いた。
「樹郎!」
 彼は、二、三度深呼吸をすると、沙羅の手を借りながら、体を起こした。そして、憎しみと嫌悪の視線を彼女に向けながら罵った。
「作りものの体して、男に愛されようなんて、笑わせんな! その何にも感じない人工皮膚と肌を合わせるなんて、考えただけでも吐き気がする!」
 亜夢は体を起こして、二人の方を見た。沙羅が、樹郎にすり寄って、頬に口付けした。
「私だって、そんな体になったら、死んじゃうわ」
 それは、チェッカーとして何百人ものサイボーグ患者を点検してきた彼女の本音であった。樹郎にしてみても、同じことだった。
 樹郎は、沙羅の肩に掛かった柔らかい髪を払って、首筋を露出させると、美しく褐色に輝く肌に唇を押し当てた。
「あっ!」
 沙羅が小さく喘ぎ、身を震わせた。
「生身の はだ 皮膚じゃなければ、感じることできないものな」
 低く笑いながら樹郎が言った。と、同時に亜夢が走り寄り、落ちいてた衝撃棒を拾うと、沙羅の背中に向かって振り降ろした。
 ドスンという鈍い音とバキィという嫌な音がして、沙羅が倒れ、彼女の体を通して伝わってきた強い衝撃が樹郎を気絶させた。
 亜夢は、衝撃棒を落とすと、屈み込んで、倒れている沙羅の長い黒髪を鷲掴みにして、力一杯引っぱった。一瞬にして、それは剥がれ、彼女はそれを自分の頭の上に乗せ、その柔らかな髪を何度も掻き上げ、何度も指先に巻付けて弄んだ。そして、膝を付くと、沙羅の額の生え際に出来た縁に指先を掛け、摘むようにして、引き降ろした。剥離されたものは、流れ出る生暖かい液体が接着剤になって、彼女の人工皮膚の上に付着していく。彼女は衣服を脱ぎ、次々と剥がしては、張り付けていく。しかし、うまく剥がれず、ちぎれた断片となってしまい、体に付けてもまだらになっていた。
 やがて、樹郎が意識を取り戻して、呻いた。
「ううっ・・・」
 亜夢はそれに気付き、まだ目を開けていない彼の上に覆い被さった。
「ジュ・・・ロウ・・・」
 彼女は優しくささやいた。樹郎が、顔に生温い液体が落ちてくるのを感じ、目を開けた。
「ギャアァー!!」
 目の前に、・・・白い皮膚に赤くにじんだ褐色の断片をまだらに張り付けた顔があった。彼には、それが何かわからなかった。その顔に付いている唇がにやりと歪んだ。全身も褐色のまだらだった。火にあぶられたような手が自分に伸びてくる。恐怖に錯乱した。
「コレナラ・・・カンジル・・・ワ」
 まったく抑揚のない声がくぐもつて聞こえた。
「ウワァーア!!」
 樹郎は悲鳴を上げた。腕を掴もうとした手を払い除け、後も見ずに走り出した。
「ジュロウ、マテ、マテ、・・・」
 まだらの化け物が後を追ってきた。
 樹郎は、コントロール室のインカムに向かって叫んだ。
「た、助けてくれ! ば、化け物がっ!」
 化け物が、コンソールに近付く。あわてて、コントロール室から出た。廊下を歩いていたセンター員たちが、樹郎の後から追ってくる化け物の姿に驚愕した。
「なんだ!? あれはっ!?」
 セキュリティの一人が、正体の確認もせずにガン銃を向けて、発砲した。空を裂くようにして、赤光が向かっていく。赤光が、化け物の体を焼くかと思われた。
 しかし、化け物は、赤光を避け、セキュリティの背後に隠れていた樹郎を捕えようとしていた。
「ひっ!?」
 飛びつこうとする化け物の背中に再度銃が向けられた。赤光は化け物の体に当たった。閃光がして、化け物の体に頭程の穴が開いた。穴の中で、人工神経やシリコン骨、メカニカルな内蔵機構が火花を散らしているのが見えた。
 次々に赤光が穴を穿っていく。だが、ふらふらとなりながらも、なおも樹郎の方に近付こうとしていた。樹郎は、身がすくんで動けなかった。
「うぅっ・・・」
 化け物が、両手を広げて、天井を見上げて、『歌い』出した。
「ぎゃらくし、ほらい・・ずんメザシ、アナタノモト・・・ヘ、アナタ・・・ノモトヘ・・・」

 肩を小さくすくめ、小首を傾げ、しゃなりしゃなりと腰をくねらせて・・・コケティッシュなポーズとって・・・  前方からの白光が、頭部を直撃し、粉々に粉砕した

 チーフ・トレーナーイイノが、呆然としている樹郎に声をかけた。
「まさか、こんなことになるとは・・・メンタリティチェックの見直しをしなければならないな」
 イイノは、処理班の作業をちらっと眺めた。そこへ、一人の男がやってきた。
「チーフ、チェッカー・ヤシロ、一命を取り留めましたよ。ただ、皮膚の殆どが剥離されているので、全身人工皮膚移植は免れませんけどね」
 樹郎は、凍り付いた。 (完)