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 テーブルの上に夕食を並べ終えた。電話が鳴った。エプロンで手を拭きながら受話器を取る。

「なに、これから来るの?」

 同時に呼び鈴が鳴った。

「突然でごめん!」

 弾けるような声で謝り、箸を取った。今は帰らぬ夫の分がそのまま訪れた義妹の夕食になった。

「いいけど、せめて駅から電話してね」

 義妹は、すねたようにピンクの唇を尖らした。

「だってぇ、迷ったのよ、どーしようかなって。そしたら、着いちゃったからさぁ」

 白い湯気がふわりと二人の顔を覆う。義妹の視線が落ちた。

「帰るのしゃくでさぁ」

 微笑んでみる。いつものたわいのない痴話喧嘩だろうから。

「あいつ、見合いしたんだって、両親乗り気ってやつで」

「あなたがいるのに?」

 どうも『いつもの』ではないようだ。

「両親が釣り合いとれないとか言ってるみたい。あいつも結局高校中退じゃあ、みたいなこと、言ってるしさ」

 彼に大学の友達に紹介できないと言われて、アパートを飛び出して来たことがあった。一緒に住んでみるといろいろと『不一致』なところが出てきてと悩んでいた。

「やめちゃおっかなぁ…あっ…」

 彼女が顏をしかめた。ジャリッと音が聞こえてきたような気がした。

「ごめんなさいね。砂出し足りなかったみたい」

 義妹が首を振った。

「難しいのよね、アサリの砂出しって」

 そのまま、目をちらっと箪笥の上に向けた。

「アニキ、好きだったもんね、アサリのみそ汁」

 永遠の微笑がそこにあった。

 向き直った義妹が少し真剣な顔で見つめた。

「義姉さんもそろそろ、次にいっちゃいなよ」

 帰ってくるはずはないとわかっているのに、帰ってくることを待ち望んで、食事を作る。一人暮しの身、一人分では寂しい。だが、二人分は悲しい。

「そう簡単にはね」

 義妹が千切りキャベツ大盛のしょうが焼きを食べ尽くした。

「生きてる人、あきらめるより、簡単じゃない?死んじゃったら、もうどうしょうもないじゃん」

 かなり乱暴だが、義妹流の慰めだった。

「死んじゃったと思って、あきらめよっかなぁ…」

 彼女のはっきりと縁取られた目に光るものが滲んでいた。

 

 朝、慌しくコーヒーで食パンを流し込んで義妹が出て行った。自分も出勤の準備をしようと台所に立った。夕べ、食後に焼酎のウーロン割りを二人で飲んで、後片付けもせずに、すぐに眠ってしまった。鍋にわずかにみそ汁が残っていた。汁を捨てる。

「あ…」

 鍋の底にざらりと砂が残っていた。苛立たしく指先で砂に触れる。

「いっくら吐き出させても残るのよね」

 ざりざりとした感触が伝わって来る。

「なんでかしら、なんで、残るのかしら」

 なぜ、吐き出し切れないのか、ざりざりと残るのか。

「砂、残ってたら食べたくないわよね」

 海にもまれて、飲み込む砂。吐き出しても吐き出しても残る。

 

 夫の事故死はあまりに突然だった。結婚二年目の秋だった。好物のアサリのみそ汁が飲みたいというのに、用意できなくて、豆腐になってしまった翌日のことだった。

 突然の喪失は、容易には現実化しない。切り取られた四肢の感覚のように、あるはずのないものがあるように思える。喪失を実感できないことが、取り込んだ砂を残すのか。それとも、あまりにたくさん取り込んだので、吐きだし切れないのか。

 畳まれたひだの間にざりざりと残る。忘れられない思いが、忘れたくない思いが、そこにある。

「急いで買いに行けば、間に合ったのよね、スーパー」

 なんであの夜に限って、アサリを切らしたのか、週に一度は食べるのがわかっていたのに。その日だったのに。

 悔やまれてしかたなかった。悲しみよりも後悔が今も胸を締め付けていた。

 

 月末の仕入伝票の仕訳を終えて、退社時刻になった。昔から変らぬ紺の事務服を着替えてロッカールームの女の子たちに会釈した。

「たまにはどうですか?」

 年下の同僚から誘われる。

「ごめんなさい、いもうとが来るの」

 いつもはそんな風に断わる。だが、今日は迷った。

「そうねぇ…」

 次の一言が足を運ばせた。

「後から、係長たちも来るんですよ」 

 

 何ヶ月かぶりの居酒屋は相変わらずざわめき、沸き上がっていた。会社の同僚の女の子たちとの『飲み』は、たわいもない話に終始する。当り障りのない程度に上司の悪口、少々羨望が込められた玉の輿に乗った友達の話、新しいショッピングモール、買えないブランドもののバック。

 一段落したところで、やってきた係長や男子社員たちも交えて、飲み直す。係長は、部下たちの歓談を苦笑しながら聞いている。夫との死別によって、再就職した時から、なにくれとなく、気遣ってくれた。独身で年が近いこともあって、共通の話題も多かったが、なにより、いろいろな付合いを閉ざそうとするのを心配してくれた。時折会社帰りに『お茶』に誘わってくれた。静かなティールームでのひとときは、心落ち着き、心ざわめくものだった。

 カラオケに流れるグループと別れて、駅に向かう。住居が遠方の係長も一緒に引き上げた。

「ひさしぶりですね、飲み会に出たの」

 こくりと頷く。

「最近はお茶もしてませんでしたね」

 避けていたと気付いていただろうか。

「少し酔いを醒ましていきましょう」

 駅までの途中、公園に入る。眠っている噴水の周りを半周する。少し後から付いていく。ほんのり酔いの頬に初秋の夜風が心地よい。夫に申し込まれたのは、こんな季節のこんな夜だった。

…ずっと一緒にいたいな

「ええ、私も」

 思わず口を付いて出た。体の奥から砂のカタマリが吐き出た。

「でもね。でもね…」

 忘れるために吐き出すのではない。

「私の時間は進んでいるの」

 永遠に微笑んでいる夫の時間の中には留まれない。たとえ、砂を吐き出し切れないとしても。

 ゆっくりと前を進んでいた係長が振り向いた。

 

 十二枚綴りのカレンダーが残り一枚になった。寒さが染みる台所の流し台に置かれたボウルを覗き込む。

「なかなかよく吐き出してる」

 勤めから帰って来たばかりの義妹が、振りかえった。

「ねえ、たまにはボンゴレにしない?」

 テーブルの上に置いた紙袋の中からさっと白ワインを取り出す。

「そうね…」

 ほんの少し言い澱んだ。

 週一、いつものようにアサリのみそ汁。鯵の南蛮漬けでもと思っていたが、パスタに切り替えても、材料は買い置きで充分間に合う。

 義妹の差し出す白ワインを受け取る。

「いいかもね」

 にこっと笑い合う。

 さらりと滑るパスタの湯気が立つ。

 グラスが三つ。

 呼び鈴が鳴る。

 乾杯。          ()

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