作・本間範子

                  

今日こそは晴れて欲しかった。だがまた雨だった。もう五日も降り続いている。そこは、両側をさほど高くはない小山に挟まれた谷底のわずかな平地にある山村だった。 村は、濃い湿り気の中で穏やかな時間を過ごしていた。
村の中央を郡道が通っている。 その道をフォレストグリーンのレインウエアを着た中学生くらいの少年が走っていた。その横を茶色の短い毛をすっかり濡らした大型の犬が伴走していた。
「八房、嬉しいか。五日ぶりだもんな!」
犬の八房がうれしそうにふさふさした尾っぽを振りながらウワンと吠えた。前からグレーの傘が歩いてきた。少年に気付いた。
「なに、この雨ん中犬の散歩かい、心平ちゃん」
近所の農家のおじさんだ。心平が足をとめると、先に行ってしまった八房があわてたふうに戻ってきた。
「ちょっと雨弱まったから。もう五日も走ってないんで、こいつ、キレそうだったんだ」
 心平が足元を回る八房の頭を撫でた。
呆れた様子のおじさんと別れて、また走りだす。郡道から外れて坂を上がろうとした時だ。ふいに後ろから『風』が吹いてくるような感じがした。振り向く。ザァーッと雨混じりの風が体を叩いた。心平が目を見張った。
「何!?」
 道の向こう、谷の奥、山上から何かが猛スピードで飛んでくる。ぶつかる!思わず両腕で顔を覆う。
 シュウーン!! シュウーン!!
空を切る音、そんな音をたてて幾つものそれが、心平の両脇をすり抜けていった。
あっという間の出来事だった。心平は呆気にとられてそれの去り方を見送っていた。 急に雨足が早くなり、どしゃぶりになった。

勝手口の土間で心平がレインウェアを脱いでいると、祖母のはつが、バスタオルを二枚持ってた。一枚は心平に渡し、もう一枚で八房を拭きだした。
「お帰り、八房、腹空いただろ」
 八房がクゥーンと甘えた。はつがカッポウ着のポケットから茶饅頭を出して、八房に食べさせた。濡れた髪を拭き終えた心平が、傍らの古新聞の中から裏が白紙のチラシを出した。鉛筆で絵を書き始めた。
 はつがもうひとつ茶饅頭を出して心平に差しだした。
「しんぺーも食べれ」
かなり日が経っていてカサカサに乾いた饅頭だ。心平が受け取っていると、台所から母親の百合が出てきた。
「おばあちゃん、一体いつのお饅頭なの!?犬にならともかく、心平に食べさせないで!」
 はつが怯えたように首をすくめた。心平が母を睨み付けた。すぐにはつのほうを向いた。
「ありがと、でも俺より八房のほうが腹減ってるから、こいつにやるね」
 はつがほっとしてうれしそうに頷いた。母が不機嫌そうに戻っていく。心平が八房に食べさた。はつが板敷きに腰掛け、手に触れたチラシを見た。首を傾げている。何かを思い出そうとしているようだ。
「どうしたの、ばぁちゃん」
 次第にはつの表情が強ばっていく。体がぶるぶると震えてくる。乾いた厚ぼったい唇をわずかに開いた。
「これは・・・」
 そこには、丁度妖怪の一反木綿に耳のようなとんがりと短い一対の手か脚を付けたような奇妙なものが書いてあった。
「それさ、八房と散歩してたときに見たんだ。山上のほうから、まるで風みたいに沢山吹いて・・・でも、早くてよく見えなかったけど、なんか、透きとおってるみたいだった」
「こりゃ・・・みずいぬじゃ・・・」
「みずいぬ?」
心平は聞き返していた。お世辞にもうまいとはいえない心平の画力で書いたその絵は あまり犬には見えない。 
急にはつが叫んだ。
「山津波じゃ! 山津波が来る!! 」
 八房の背中にしがみついて、わあわあ泣きだした。
「いったいなんなの!?」
 百合が険しい顔でやってきた。はつが、百合の膝にすがった。
「百合さん、みずいぬが出たんじゃ!早く山神様に逃げないと、皆生き埋めになる!!」
 百合がはつを引き剥がし、突き飛ばした。
「またわけのわからないこと言って!いい加減にして!」
 なおもすがろうとするはつを叩こうと手を振り上げた。その手を心平が止めた。
「ばぁちゃんたたくのやめてくれよ!」
 百合が心平の手を振り払った。
「もう沢山よ、おじいちゃんが死んでからすっかりボケておかしなことばかり言って!」
「ばぁちゃん、そんなにボケてないよ。母さんが叩いたりするから、怯えてるだけだよ。もっと優しくしてやってよ!」
七年前に祖父が亡くなってからはつは時々神懸かったように山神様の声が聞こえるとか言い出して百合を苛立たせていた。しかも三年前から父が町に働きに行って滅多に帰ってこない。母はストレスが溜まっていて、余計はつに当たっていたのだ。
はつは、寄ってきた八房にしがみついて、身震いしていた。
「みずいぬじゃ、山津波が来る・・皆死ぬ」
心平がはつの肩を強く掴んだ。
「ばぁちゃん、そのみずいぬって何?」
「みずいぬは・・山神様の使いじゃ、山津波の前振れとして、山神様が村々に送る、逃げろて、言うてくださっとるんじゃ、だから早う、山神様の所へ行かんと!」
百合が呆れていた。信じろと言うほうが無理だろう。実際に目にした自分ですら信じられないというのが本音なのだから。
だが、はつは、激しく頭を振って喚いた。
「皆死ぬ!! 山津波に飲み込まれて死ぬんじゃ!!」
 百合が憎しみのこもった目ではつを見た。手にしていたハンドタオルではつの口を塞ごうとした。
心平がタオルを奪った。土間に叩き付けてから納戸に向かった。レインウェアと寝袋二つ、ランタン、シングルバーナー、コッヘルを出して来て、ザックに詰め込んだ。後ろに立って見ていた母が尋ねた。
「どうするつもりなの?]
 心平が大型のアーマーライトを点滅させて点検する。
「ばぁちゃん、山神さまに連れていくよ。朝になれば、落ち着くだろうし」
 山神さまは山の上にある神社のことで、石段の上に鳥居と本殿だけが残っている無人の神社だ。さすがに母も不安げだ。
「よしなさい、お父さんがいない間に何かあっらどうするの」
 心平が母のほうを見ずにザックの口を閉めた。

心平は八房の背中にザックを括付け、はつを背負った。雨はますます激しくなっていた。谷の奥には警戒小屋があって警戒は怠っていないはずだから、万が一山津波が起こりそうになったら、避難警報が出るはずだった。だから、村のことは、少しも心配することはなかった。
崩れかけた石段は濡れて余計に滑りやすかった。なんとか上り切った。無人の本殿の欄干に上がる。かなり落ち着いてきたはつのレインウェアを脱がして寝袋に入れた。コーヒーでも入れようとしたとき、はつが、起き上がった。同時に山々がごおっと唸った。心平が欄干から飛び降りた。
「まさか、ほんとに!?」
 谷奥に目を向けた。真夜中だ。何も見えるはずはない。だが、それは光輝いてまっすぐに心平の方に向かって飛んできた。
「あれ、が、みずいぬ!?」
はつも八房と一緒に下りてきた。
「ああ、早う、知らせてやらんと、百合さんが!!」
 石段の方に駆け寄ろうとした。心平が止めた。
「俺が行くから、ばぁちゃん、ここで待ってて! 八房、ばぁちゃん頼むな!」
八房がワオーンと吠えた。すると、上空を通過していたみずいぬが急降下してきた。とっくに石段を駆け下りていた心平にぶつかった。
「わあーっ!?」
 次には心平の体は夜の雨空の中にあった。
「ええっ!?」
 目の下にはぽつぽつと人家の明りが見える。前も上も真っ暗闇の空中だった。みずいぬの背に乗って、飛んでいた。驚く間もない。後ろを見ると、何故か谷奥の山壁がピシピシと亀裂が入って行くのがわかった。
 急がなくては!!
すると、みずいぬが向きを変え、警戒小屋の方に向かった。油断していたのか、警戒小屋は誰もいなかった。一匹のみずいぬが小屋の窓を破った。心平は入り込んで、避難警報のスイッチを入れた。谷中にサイレンが鳴り響く。
すぐにみずいぬが心平を掬って飛んだ。家に向っていた。
「母さん!!」
こいつで助けにいけば、いくらなんでも母も信じるだろう、村の皆も助かる。はつの信心が山神様に通じたんだー
心平は身震いがして、振り返った。山が動いた。その向こうから何か暖かいものが自分を見ているような気がした。
「山神さま・・・」
心平が拳で眼を擦った。              (完)

Home