一の条 楞厳林

※長文のためDLしてお読みください。HOMEへ

 中天は、真午の明光の強烈な輝きに、目も眩まんばかりであった。わずかな雑草が、ところどころに生えているだけで、風が吹けば土埃が舞い上がり、たちまち霞がかかったようになってしまうような荒れた土地である。半里程西には、緑豊かな菩提樹の群林が涼しげな木影を作っている。また南へ向かえば、白山査子の花の垣根が長く続いている。そのような一角に、三尊の若い尊格たちが立っていた。一尊の男尊と一尊の女尊は、十間余りの間を隔てて相対峙し、今一尊の男尊は、彼等から二十間は離れたところで軽く腕組みをし、静観している。

 対峙する二尊の方は、全身から張り詰めた緊張感を発しており、やがて、その緊張感は、周囲の大気をも圧倒するような闘気へと変化していった。身丈六尺程の均整の取れた体躯を持った若尊 は、どこか稚気のある面立ちに不釣合いな狂暴さを漲 らせた視線を、相手の女尊に突き刺すが如くに向けている。体から立ち上る闘気が短い黒髪を逆立て、放射状に光背のように形造った。大きく息を吸いながら、ゆっくりと両手を胸の前で組み、堅く目を閉じた。他方、相対する女尊の方も同じように両手を組み、目蓋を閉じた。紅蓮の炎の如き赤い髪を金糸の組紐で高く一つに束ね、背の中ほどまで長く垂らし、髪と同じ色の瞳を今は隠している。やや女らしさに欠けるが、しなやかな牝鹿のような溌剌とした筋肉は十分に使い込まれ、その身体に十分に馴染んでいるようだった。二尊はほとんど同時に、和するかのように咒を唱え始めた。

「オン ボウジシッタボダハダヤミ」

 だがその声は、己れ一尊に聞かせるだけの微かなものであったが、その功徳は禅定衆の尊格である二尊に「胎蔵毘盧舎那」の超法力「胎蔵力」を招来した。男尊は組手を瞬時に動かし、食指を合わせ立てて印を結び、猛々しく体内で暴れ出そうとしていた悍馬のような超法力を押えていた手綱を一気に放した。

「發!!」

 その声と共に、両眼は見開かれ、印契から目には見えない気の層が、熱風の壁となって、音を追尾するが如くに猛然と突き進んで行った。相対する彼女も又、炎を宿した瞳を晒し、組み合わせていた両手を広げながら突き出し、凛とした声で歌うような音律を響かせた。

「オン サラサラ バサラハラキャラ ウン ハッタ!!」

 彼女の周囲には、護身結界が張られ、せまってきた気の層を跳ね返した。跳ね返された気の層は、結界の外側を巻くようにして吹き荒れ、微細な土埃を舞い上がらせていた。が、護身結界は、短時間しか保持できない。すぐに結界は解かれ、彼女の頭上にはすでに、両手で作った拳 を振り下ろそうとする若尊 の姿があった。素早く後方に跳ね退き、彼が片膝を付くように着地したところを狙って、右足の甲で左顔面を激打した。

「痛!」

 短く呻くと、地面に倒れ込みながら一回転して低く体勢を整え、大地を蹴るようにして体を起こすと、胸元目掛けて右拳を突いた。しかし彼女は、その拳を払うようにして受け流し、手刀で相手の腕を打とうとした。が果たせず、両の手首は彼の熱い掌 に掴 れてしまった。

「何するのよ!」

 銀鈴の如く涼やかで明朗な声が、彼の顔を打った。

彼は、少々不遜な笑みを唇の端に浮かべ、掴んだ手首を強く引き寄せ、その勢いで自分の胸に飛び込む恰好になった瑞々しい肉体をきつく抱き締めた。怒気で火照った耳朶に触れんばかりに唇を近づけた。

「迦楼羅、修行なんかやめてさ、二尊で遊ぼうぜ」

 迦楼羅の俊敏な片膝の動きが、昂揚しつつあった若尊の部位を下から突き上げた。余りの痛感に声もなく、後方に一歩下がり、急所を押えながら蹲った。苦痛にもがく様を見て、鼻先で笑うと、左肩に掛かっていた毛先を手で背中の方へ払い、そのまま両手を広げて、ゆっくりと頭上にかかげた。

「オン ハンドメイ シンダマニ ジンバラ ウン」

 そして、素早く両腕を振り下ろすと、彼女の背後に淡い金紅色の光翼が現われ、瞬く間に中空へと舞い上がって行った。

「誰が龍王 なんかと!いやらしいことばかりするなって、阿修羅に言いつけてやるから!!」

 言い捨てて、迦楼羅は、遠く西方に霞む菩提樹群林に向かって飛び去っていた。ようやく立ち上がった龍王は、膝についた土を軽く払い落とし、彼女の飛び去った方角に目を遣った。

「ったく、酷ェことするなぁ・・・ 」

 軽く背筋を伸ばしながら、小さな溜息と共につぶやく。その時、それまでの一連の出来事にまったく干渉せずにいた若尊が声を掛けて来た。年恰好は龍王と同じように見えるが、色白の細面で眼尻の釣り上った、やや癇の強そうな若尊である。

「おまえが莫迦なだけだろう」

 組んでいた腕を解き、薄い唇に酷薄な笑みすら浮かべて、龍王に近づき、更に言った。

「阿修羅に去勢されないように気をつけるんだな」

 そして、ゆっくりと背を向けると、南の方へ歩いていった。龍王は、その場で地団駄踏みながらその刺を含んだ後姿に、怒鳴りつけた。

「なんでぇ!マゴラカ、手前の方こそ、使わねぇなら、ちょん切っちまえ!」

 禅定衆八部衆の一尊龍王は、やはり八部衆の一尊で修行勤行以外の時には女尊に声を掛けることすらしない徹底した女嫌いのマゴラカをさんざんに罵倒した後、西の方に再び視線を向けた。

「誰か、遊んでくれねぇかな」

 一つ伸びやかに深呼吸すると、全身これ發条といった風に勢いよく、しかもかなりの速さで西の方へ駆け出していった。

 禅定衆の中にあっても、飛行力をその体内機構に具備する尊格は、そう多くはない。しかも、天部にあって飛行咒を唱えて功徳あるは、八部衆の迦楼羅のみである。

 その迦楼羅は、楞厳林 と名付けられた菩提樹群林の中を疾風のように飛んでいた。枝葉に毛ほども触れずに木々の間を舞うが如くに飛ぶ姿は、さながら鳥のようであった。やがて、林がやや疎 になっている、少し開けた叢のようなところに出た。その中央で、先刻の迦楼羅と龍王のように修行の為の試合を行なっている、やはり二尊の男女がいた。そして、一際背が高く幹も太い樹木の下に佇 んでいる別の男尊の側に迦楼羅は音もなく着地した。彼女の方を見遣りもせずに、いささかも動じることなく、沈着な表情を保ちながら言った。

「組合せが悪かったようだな」

 迦楼羅は小さく肩をすくめ、両手を頭の後で組み、幹に寄りかかった。試合中の二尊の方を見、それから隣りの男尊の顔を見上げるようにした。

「阿修羅ったら、相変わらず手厳しいわね」

 申し訳程度にうなづいた彼の視線は、固定されたままであった。試合は、阿修羅女尊の一方的な優勢で進められていた。射干玉のように艶やかな黒髪を高く結い上げ、やや太めの眉をきりりと釣り上げて、意志の強い冷厳な気を放っている。その気に押される一方の相方の若尊は、緊那羅といい、阿修羅ともども八部衆の一尊である。緊那羅は、阿修羅の放つ気の礫 である気放弾を躱し切れず、いくつか体に当てて、打撃を受けていた。今また、護身結界を張る間も与えられず、次々と飛んでくる気放弾を全身に受け、跳ね飛ばされて後方の木の幹に叩きつけられた。その衝撃で枝から葉が霰 のように降って来た。緊那羅は、一番打撃を受けている腹部を左手で押えながら、悲鳴に近い声を上げた。

「もう勘弁してくれよ!反撃する間もないよ!」

 彼が言い終える前に、阿修羅が木の根本に座り込んでいるところにやって来ていた。彼女は彼の胸元を乱暴に掴むと、釣り上げるようにして立たせた。

「この程度の速度についてこれんようで、八部衆が名乗れるか!さっさと立ち上って、構えろ!」

 よろけながら木の膚に背を預けて、小さく咳込み、少量の血反吐を吐いた。それを見て、阿修羅は舌打ちし、迦楼羅たちの方を振り返った。

「薬叉、緊那羅を少し休ませろ」

 薬叉は、すでに二尊の側までやって来ていて、緊那羅に肩を貸してやった。迦楼羅が阿修羅の横に立ち、彼女の左肩に両の掌 を乗せて顔を寄せた。

「私が代わりに相手になるから、ね?」

 阿修羅の鋭利な視線が、紅蓮の瞳に向けられた。

「おまえには、龍王とマゴラカとの試合を命じたはずだ。何故ここにいる」

 迦楼羅が丹を落としたような唇を突きだして、拗ねて見せた。阿修羅には、凡 その事情が察せられてはいたが、八部衆の頭 として、修行を疎 かにして来た彼女を仮借なく咎めたのである。

 緊那羅を木影に座らせてから、薬叉が、二尊の女尊に近づいて来た。彼は、緊那羅、龍王、マゴラカの三尊と違い、壮年の姿をしており、引き締まった長身に沈着な表情を常に湛えていた。とかく悍馬のように暴走しがちな若尊達を牽制しつつ頭 の阿修羅を陰から支える役目を続けていた。

「どうせ龍王もマゴラカも、これ幸いと遁走したに違いないし、私は別院にお出での千手様の元に参上するから、迦楼羅の好きにさせるといい」

 阿修羅は返答せず、肩に置かれたままの迦楼羅の手を振り払うと、そっけなく言った。

「始めるぞ」

 喜びの拍手を一つすると、迦楼羅は、踊るような足どりで先を行く阿修羅の後を追った。二尊の姿を背にして、薬叉は緊那羅に近づき、一声掛けてから悠然と立ち去った。彼の向かうところは、この楞厳林 の西のはずれにある宝篋別院という地方都市で、彼等八部衆の内六尊が主尊(眷属を束ねる尊格)である虚空蔵院千手の供をして、赴 いていたのである。宝篋別院は、「胎蔵城」の西の楼門を守護する広目門衛府の置かれているところである。

 額に玉なす汗を腕で拭いながら、緊那羅は深く溜息をついた。その時、寄り掛かっていた木の裏側から手が伸びて来て、彼の肩を軽く突いた。驚いて肩越しに振り返ると、木の影に体を隠すように腰を低くしている龍王 がいた。

「りゅ・・・ !」

 小さく叫び声を上げかけた緊那羅に、龍王は食指を立てて唇に当て、それを制した。

「な、小滝の方へ行こうぜ」

 片目をつぶり、拇指を立てて背後を指し示した龍王に、やはり片目をつぶって答えた。

「ああ、行くよ」

 阿修羅と迦楼羅は、護身結界を接触させながら、激しくぶつかり合っていた。その強力な気の渦に、二尊の周囲は、大気が不安定に振動していた。緊那羅は、腰を降ろしたまま、ゆっくりと後ずさりし、二尊が気づかないことを確認すると、すでに先を行く龍王を追って、脱兎の如く駆け出した。阿修羅から受けた打撃からは、もう回復していた。

 尊格の足の速さは、その尊階や具備する機能に応じて音にも光にも近づけることすら可能だが、その際には咒によって身体を守る為の護身甲冑を身につけ、更に何重もの強固な結界を張らなければならない。が、この時の二尊は、せいぜい

木の葉を枝から散らす程度の速さで走っていた。いささかの呼吸の乱れも見せずに、二尊は、話し合いながら、樹々の間をすり抜けるように進んでいた。

「何で迦楼羅なんかにちょっかい出すんだい?絶対に抱かせてなんかくれないよ」

 緊那羅の薄茶色の短い髪が、彼の動きに合わせて小躍りするように跳ねている。龍王は屈託なく笑った。

「からかっているだけさ。あいつ、ムキになるから、面白いし、な」

「でも、修行中にふざけると、阿修羅が、さ」

 緊那羅の口調は、龍王の軽い態度とは対照的に真剣味を帯びている。

「阿修羅がいくら怒ろうと、俺は平気だ。おまえも、いちいち気にするな」

 龍王は、あくまでも気楽に構えているのである。緊那羅の方は、そうのんびりとはしていられない。龍王は、禅定衆天部最強の闘尊である阿修羅と甲乙つけ難い機能と功徳を持っているが、緊那羅はやや気が小さいことも手伝って、二尊に比すれば見劣りすることは否めないのだ。そのことを一番よくわかっているのは本尊だった。

「結局、俺一尊が、折檻されることになるんだから・・・ 」

 一尊愚痴る緊那羅であった。

 やがて、楞厳林が終わり、高さ三間弱の小さな滝のある細流が現われてきた。その小滝の側の岩に立ち、跳ね返る飛沫を全身に受けながら、身につけている衣や脚絆の比類を全て取り去り、冷水の中に飛び込んだ。火照った身体が冷却され、引き締まってくるのを感じた。さほど深くはない流れの中に立ち、互いに水を掛け合って戯 れていると、滝の上の方から、大きな水音と共に悲鳴が聞こえて来た。素早く小滝の方に体を向けた時、龍王の頭上を影が覆い、咄嗟にそれが何であるかを察した彼は、両腕を大きく広げて、落下して来たものを抱き止めた。

 ほっと一息ついて、腕の中を見た龍王は、思わず顔を綻 ばせた。そこには、全身濡れそぼった若い女尊が、蒼白な面 を上げて、彼を見上げていた。

「大丈夫か?」

 柔和な口調で声を掛ける彼に、その女尊は、幾分赤味を取り戻した面持ちでうなずいた。緊那羅も側に駆け寄ってきた。抱き締めたいような愛らしさだと緊那羅は思った。小滝の上から、叫ぶような呼び声がした。

「朱泉!」

 見上げると、もう一尊、こちらも同じように若い女尊が、滝の脇の岩を覚束なげに伝って降りてくるところであった。緊那羅がすかさず寄って行った。

「危いよ!」

 降りるのに手を貸しながら、彼は、この女尊と龍王が岸辺に立たせている女尊が、双児であることに気づいた。

「朱泉!ああ、どうなることかと思ったわ!」

「白泉 !」

 二尊はしっかりと抱き締め合った。

 朱泉と白泉の双児は、宝篋別院に在し、蓮華部院別處に勤行していた。甘露(「胎蔵力」を液体化した飲み物)の添えにする為の茘枝を採取に来て足を滑らし、小川に落ちて流されてしまったのだと事情を説明した。二尊は、龍王と緊那羅のことを知っていた。

「虚空蔵院千手の眷属八部衆龍王 様」

 額の中央に赤い花弁の刺青がある朱泉は、少し含羞みながらも、熱っぽい瞳で龍王を見つめた。

「同じく緊那羅様」

 言の葉を継いだ白泉の額には白い花弁の刺青があり、その御蔭をもって二尊の区別がようやくついた。白泉の方が、やや快活な性格のようであった。四尊は、小滝の側で、朱泉らが採っていた茘枝を摘みながら、他愛のない話を楽しんだ。その間に、体表の熱量を増加させて濡れた体と衣を乾かした。

 朱泉が暇 を告げ、白泉をうながし、立ち上った時、龍王がその華奢な腕を掴んだ。そして、軽く引きながら、言った。

「もう少し、側にいてくれ」

 口元を袖で被って、軽く睫 を伏せた。頬に恥じらうような笑みを浮べている。女尊がこのような仕種を見せる時は、自分を憎からず思っているのだということを、龍王は経験的に知っていた。更に腕を引き、抱き寄せて、いきなり唇を吸った。それでも朱泉が逆らわなかったので、委細を承知したと見てとった龍王は、草の上に彼女をゆっくりと押し倒した。

「ちょっと、マズいよ、龍王・・・ 」

 緊那羅が止めに近づこうとすると、白泉が満面の笑みを湛えてその手を取り、少し離れた茅萱の繁みに導いた。

「さっ、緊那羅様」

 小さな声で誘う白泉に相好を崩して、高ぶるままに体を重ねていった。

 龍王は、舌を絡め合っての深い接吻を続けながら、朱泉の帯を解き、衣の前を開いた。左手で白い乳房を柔らかく掴んでゆっくりと揉み、拇指と食指で乳首を摘んだ。右手の方で自分の袴を緩め、すでにきつくなっていた下帯を外すと、次に朱泉の股間に割り入って、指で陰門を愛撫した。 ・・・いささかの時の流れの後に、激昂する龍王の男根が深奥を貫いた瞬間、朱泉はかつてない快楽を感じ、体内を吹き荒れる嵐に狂喜して男尊の動きに呼応するように激しく乱れた。彼女の快楽は、龍王の嵐が去っても、尚続いていた。朱泉の陶酔した表情を享しみつつ、頬と言わず首と言わず小鳥の啄ばみのような接吻を降らせると、股間に熱い血が集中して来て、再び勃起した。

 その時背後に、闘気を遥かに凌駕した殺気に近い気を感じ、半身を起こし、振り向き様に左の掌を広げ、咒を発した。

「オン バサラハンシャラ ウン ハッタ!!」

 空網結界が二尊を被い、そこに無数の気放弾が当たり、弾かれ、霧散した。底には、怒りで眥 を釣り上げ、周囲の大気を沸騰させている阿修羅がいた。見境のない攻撃に、龍王が声を荒げた。

「朱泉を巻き込むつもりか!」

 しかし、阿修羅は容赦なく両手を組み、食指を合わせ立て、咒を唱えた。

「オン アサナマギニ ウン ハッタ!!」

 彼女の全身から火炎が噴き出し、龍王たちに襲いかかった。

「ちぃっ!」

 短く舌打ちすると、褥のように広がっていた衣と共に朱泉の身体を抱きかかえ、火炎を避けて飛退いた。緊那羅は、阿修羅の出限に仰天していた。茅萱の繁みに白泉を押し倒したまま、草の間から様子を窺 っていたが、すっかり惑乱していた。龍王が朱泉をかかえたまま、繁みの前まで後退してきた。

「何でこっちに来るんだよ!見つかっちゃうじゃないかぁ!」

 頭をかかえて聞こえないように喉の奧で怒鳴った。しかし、龍王は、そこに朱泉を静かに横たわらせ、その衣の前を合わせて、すぐさま阿修羅の放つ火災の中に飛び込んでいった。

「ナウマクサンマンダボダナン ギャギャナウサンマサンマソワカ!!」

 龍王の印契から激浪の如き水流が噴出し、阿修羅を火炎もろとも飲み込んだ。そのすさまじい勢いに阿修羅は後方に吹き飛ばされ、地に倒れた。すぐに立ち上がり、頭を左右に振って衝撃を振り払い、前方に立ちはだかる龍王を睨付けた。

「龍王!貴様、修行を徒疎 かにして女淫に耽るとは言語道断だ!その根性、叩き直してやる!」

 阿修羅の罵倒をものともせずに、悠々と下帯をつけ、衣を纏い、帯を締めた。

「修行を疎 かにしてるかどうか、試してみるか?この龍王、同じ天部の尊格に意見されるほど、腐っちゃいねぇぜ」

 阿修羅の見開かれていた目が窄まった。近くの木影にいた迦楼羅が、彼女の様子を見て、後ずさりした。

「やっだぁ、阿修羅が本気になっちゃったじゃない・・・ 」

 同じように感じ取った緊那羅も、白泉をうながしあわてて身繕いをして、まだ愉悦から覚めやらぬ朱泉をかかえるようにして繁みを離れた。

「ナウマクサラバタターギャテイビヤク ギョキギョキ サラバビギナン ウンタラタ カン マン」

 阿修羅が印を結び、咒を唱えると、印契から頭ほどの炎の球が次々に飛び出し、龍王に向かっていく。その火炎球を木の枝に飛び上ったり、又、地面に伏したりして軽々と避けている。逸れた火球が木の根に当って木を倒したり、地面に激突して炸裂した。光翼を広げて上昇した迦楼羅も、飛んでくる火の粉や吹きつける爆風から、双女尊を庇うようにして細流に沿って逃げる緊那羅も、二尊が無分別に激突するこの空間に臨界を越えた「胎蔵力」が偏在してしまい、その結果「力」が拡散してしまうことを予感した。

「阿修羅!龍王!もう、やめてぇ!!」

 迦楼羅の叫びも二尊には届いていなかった。

「逃れるばかりか、龍王!」

 阿修羅が、両手で握った一本の火炎の太刀を振り降ろした。太刀の先から、火線が地を走り、龍王の体を貫こうとした。しかし貫く寸前、龍王の掌 から電光が発せられた。その電光は、火炎の刃 を粉砕した。

「いくぜ、阿修羅!」

 龍王は、拳 を握った両腕を顔前で交差させ、力強く下方に広げた。

「發!!」

 彼の全身から、全方向に向けて雷電が放たれ、大気と地表が激震した。同時に阿修羅の全身からも、炎が噴火のように沸き上がり、竜巻となって猛進していった。二尊から放たれた多大な「胎蔵力」がごく狭い空間に集中し、その空間の持つ荷重を越えた。

 それを察した緊那羅と迦楼羅は、それぞれ結界を張った。

「オン バサラハンジャラ ウン ハッタ!!」

 緊那羅は、朱泉、白泉を囲むように両腕を広げ、空網結界を張り、来たるべき衝撃に身構えて叫んだ。

「頼むから、持ってくれよ!!」

 迦楼羅も中空高く上昇しつつ、護身結界を張った。

「オン サラサラ バサラハラキャラ ウン ハッタ!!」

 龍王の雷電と阿修羅の火炎が真向から激突した。その瞬間、大気の分子が振動し、元素が分解して二尊の間の空間に収束し、爆音と共に拡散した。白光が二尊を包み、急速に周囲に広がっていく。

 百も数えた後であろうか、白光は去り、剥出になった大地のあちこちから白い蒸気が立ち上ってっていた。清らかな小滝は崩れ、水流は上も下も干上がり、茅萱の繁みは勿論、広大な楞厳林の半分以上は燃え尽き、荒野と化していた。

 すり鉢状に削れた大地の中央に、茫然とした表情で、当事者たちが立っていた。

 宝篋別院には、禅定衆八葉院の一尊にして聖衆部の普賢が逗留 していた。八葉院の一尊にして真如部の天鼓雷音は、禅定衆の軍総帥であるが、普賢はその副官であり査察監であった。西方辺境の要塞「識無邊處」に向かうためにやって来ていたのである。今回、虚空蔵院の千手と羯羅が、それぞれの眷属を幾名か伴って随行して来た。千手と羯羅は、互いに力量を競い、功を争う仲であったが、必ずしも協調的とは言えなかった。羯羅は、虚空蔵院尊将として一軍を統率するだけでなく、蘇悉地院という別動隊を構え、明部の眷属を持つために、天部の八部衆を眷属としている千手を見下しているようなところがあった。

 千手は、別院の宿坊の玄関間で立ち尽していた。無言でひたすら平伏する阿修羅と龍王を前にして、しばし沈黙した後に、腕を組んで二尊を見降ろした。

「確かに修行に励めと言った。怠 るなとも言った。が、しかし、あそこまでやれとは言っておらぬぞ」

 彼は、常ならば、怒りに激昂するところだった。が、余りの所作に呆れ果ててしまい、怒鳴りつける気も起こらなかった。灰色の長髪に朱色の布をゆるやかに編み込んで胸に垂らし、深い群青色の瞳を曇らせている、細面 で端正な眉目の彼は、聖衆部の闘尊であった。

 二の句を継げずにいると、一尊の女尊が入って来た。豊かな黒髪を背の中ほどまで垂らし、黄金の飾り枠に大きな紫綱石を嵌込んだ額帯を締め、胸当の上から、ゆったりとした紫色の絽の肩衣を着た背の高い女尊だった。

「孔雀、何用か」

 千手が不快げに呼び掛けると、蘇悉地院孔雀は一向にかまわずに部屋の角に立っていた摩H羅伽を視界の端に捕え、それとわかるような流し目を送りながら、千手の前に、跪く阿修羅と龍王の後ろまでやって来た。

「此度の所業についての普賢様からの御沙汰を申し渡します」

 歯切れの良い、しかしいささか険のある口調で孔雀が言い始めると、千手を始め一同は緊張した。その様子を楽しむように薄い笑いを唇に浮べ、一旦言葉を切り、再び話し出した。

「八部衆の阿修羅、龍王共に別院領内の楞厳林 及びその周辺を破壊せしめたことは許し難きことではあるが、求道の思惟

過多由のことであり、その功徳は天部の域を越えんばかりと思われる。ために、今回は格別の段をもって不問に付すと共に、尚一層の精進 を求む」

 千手の愁眉が開かれ、一同に安堵の空気が流れた。しかし、孔雀の次の言葉で、色を失った。

「但し、千手とその眷属は、西の楼門を出ずること能わず、疾く、中台 (中枢地区)に帰還せよ、とのお尊言よ」

 千手の唇が蒼白になり、解かれた腕の先に握られた拳が微かに震えた。孔雀が更に続けた。

「普賢様の守護は、羯羅様とわたしで充分。天部の木っ端共が幾たりいようとも、邪魔になるだけだわ、さっさと中台へお帰り」

 さすがに千手を正面切って非難するようなことはしなかったが、下位の尊格たちに対する嘲 りは上位としての品性に欠けていた。阿修羅が頭を上げ、振り仰いで冷たい怒りを宿らせた瞳を向けた。孔雀は額の紫綱石と同じ色の瞳で睨み返すと、踵 を返して出て行った。龍王が立ち上がって叫んだ。

「千手様!」

 しかし、千手は顔を逸し、畳み掛けて言った。

「何も申すな!普賢様がお決めになったことだ!」

 さしもの龍王も堅く口を閉ざさざるを得なかった。

 三々五々各自に宛行われた寝室に下がっていったが、マゴラカは部屋の前で、雑仕の女尊から伝言を受けた。伝言に従って、宿坊の中庭へ行くと、六尺程の丈の白い芙蓉の花に囲まれた東屋の側に孔雀が立っていた。東屋の中の光珠(「胎蔵力」に対応して光る球形の燈明 )が柔らかいが、煌々と輝く光を放っていた。その明光の中で孔雀が、マゴラカに婀娜めいた視線を送った。彼は、唇を引き締めた。

「どう?わたしの眷属にならない?頂度副官を選んでもいいって言われてるし、何も八部衆にこだわる必要はないわ」

 そして、彼の真近までやって来た。

「別にこだわるつもりはないが、あなたの言う眷属とは単なる情夫のことだろう。お断りだ」

 冷然と言い放つマゴラカに、やや鼻白んだ孔雀だったが、気を取り直して、再度言った。

「天部のおまえが、明部の私を情婦にできるのよ。存分に快楽を味わせてあげるわ。ね、わたしに抱かれてしまいなさいな」

 そうささやきながら、肩にしな垂れかかり、彼の手を取って、胸に導こうとした。孔雀は多情多淫な女尊で、気に入った若尊を次々に誘惑し、あきると屑のように捨て、逆えば無惨なほどに虐待 した。ただでさえ女尊を嫌悪している彼にとって孔雀のような女尊は、最も忌むべき存在であった。彼は激しく手を振り払い、強く突き飛ばした。

「触れるな!」

 その余りの剣幕に、孔雀は一瞬怯んだ。

「他の女尊はただ嫌いなだけだが、おまえは汚らわしい淫婦だ。目にするのも悍 しい!二度と俺に近づくな!」

 彼は怒号を放つと、その場から小走りに去って行った。後に残された孔雀は、コメカミが震え、青筋が立っていた。

「何ということ!このわたしをこのように辱 めるとは!」

 彼女の内部に激しい憎悪が沸き上って来た。たった今まで入手を切望していたものが、今度は加虐の対象となったのである。

 宿坊の中庭の角にある閼伽口(湧水の噴出口)にかがみ込んで、冷水をすくって飲み、漆黒の空を見上げた龍王は、申し合わせたかのように中庭に出て来た阿修羅を見つけた。気づいて去ろうとする彼女に呼びかけた。

「阿修羅・・・ 」

 その声に立ち止まった彼女に言葉を継いだ。

「何故、本当の原因を言わなかったんだ」

「あのようなこと、 ・・・言えるわけがない!」

 言いつつ振り向いた阿修羅の表情は、どこか悲しげだった。龍王は内心どきりとしたが、押し隠して人懐こい笑顔を取り戻して、ゆっくりと近付いた。

「へぇ・・・ もしかして嫉妬いてんのか?」

 次の瞬間、阿修羅の平手が龍王の頬を打った。

「戯 が!!」

 背を向けて立ち去っていく彼女の後れ毛が微風にゆらめくのを見て、情慾がそそられるのを感じた。しかし、彼が得られたのは、片頬の痛みだけだった。掌 で押えながら、独言つのであった。

「痛ェな・・・ 」