『里』は、すでに初夏の日差しで汗ばむほどになっていた。だが、ここは、ようやく春が訪れたばかりだった。日陰の堅く締った土を踏みしめて、歩いていく。二シーズンを経てなんとか履き慣れてきたトレッキングシューズで、緩やかな登坂を登る。頭上の樹木の梢は、芽吹き出し、足下には、若草が生え出していた。そろそろ、広葉樹が切れてくる頃だ。まばらになった樹木の間で、青く澄んだ空気を背景に未だ厚い雪冠を被った岳容が厳峻としていた。 
                           
                          「はぁっ」  
                           感嘆の吐息が孤独を彌増す。誰か連れでもいれば、この爽快な景色を共有出来るのだが、単独行では独り占めできることを喜ぶしかない。 
                           
                           実は、昨シーズンまではある山岳サークルに所属していてグループ登山に参加したりしていた。だが、会員間での人間関係のトラブルに嫌気がさして辞めてしまった。もともと大学卒業後は単独行でやっていたので、不安はなかったし、それほど難しい山や厳しい時期には行かないことにしたのだ。 
                           
                           やがて、左手側が徐徐に谷状に落ち込んでいく。耳を澄ますまでもなく、細流が、聞こえてきた。このルートは何度か歩いている。足下に谷川が流れている事は知っていたが、降りたことはない。降りやすそうな見た目よりも谷は深いはずだった。今は透いてみえる樹林も、夏には鬱蒼とした森の陰りに変わる。涼を求めたくなる夏行の時も、ここで、余計な時間を費やしたりはしなかった。 
                           
                           だから、この時何故降りて見ようという気持ちに為ったのか。夏には行かれない所だからこそ、今行っておこう、多分そんなとこだったのだ。 
                           
                           おそらくは羊歯の枯れ草だろう、茶色のぶわぶわとした草が足元を危うくしている。そんな斜面に降りていく。樺んばの木肌を擦らないように気づかいながらも、時々滑り出しそうになる体のストッパーにしていた。やがて、谷川が見えて来た。目標が視界には入ると、どうも、うかつな足運びになる。そんな時に捻挫など起こしやすい。慎重に。そう、自分に言い聞かせて、降り切った。 
                           
                           幅二メートルばかりだが、川の中にも岸にも、大小様々な大きさの石が点在している。しかも、雪解けのために、水量が増していて、流れが激しくなっていた。水音も高く、飛沫も派手に飛んでいて、なかなか壮観だった。降りてきて良かった。 
                           
                           背中のザックを下ろして、グローブを外し、谷川に結手を差し入れた。キンと痛いほど冷たく澄んだ水。なにものも含まず、染まらず、純粋である。口付ける。すうっと喉を通っていく。 
                           
                           旨い。ありきたりだが、そう言うしかない。  
                           ベルトに付けたホルダーから、ウォーターボトルを外して、わずかに残っていた中味を空け、谷水を入れた。  
                          「さてと」  
                           ザックを背負おうとしたとき、上流から、何かが流れてくるのが目に止まった。明らかに自然の流出物ではない。近づいてきて、それが、ウォーターボトルの一種であることがわかった。 
                           
                           目の前を通りすぎて行きそうになった。  
                           シャァァァン・・・  
                           音がしたのだ、そのボトルが石に当たって。とっさに手を伸ばしていた。だが、届かない。右脚が水の中に入っていた。膝まで浸かってしまったが、構わずボトルを掴んでいた。 
                           
                           ボトルは自分のと同じ筒状でチタン製の軽くて丈夫なものだった。銀色のボディには、流されている間に付いたらしい細かな擦り傷があったが、それほど古くはないもののようだった。空いているキャップを繋いでいるチェーンにネームホルダーが付いていた。 
                           
                          「・・・宮脇淳浩・・・」  
                           住所も書いてあった。自分の住んでいるアパートからそう遠くない所番地だ。きっと、この谷川の上流で、自分のように水を汲もうとして、誤って流してしまったのだろう。困っているのではないだろうか。ウォーターボトルのスペアなど、もってはこないだろう。 
                           
                          「あ、単独とは・・・限らないか・・・」  
                           急に気付いて可笑しく為った。でも・・・もし、単独行だったりして、このボトルを拾ったことがきっかけで知り合いになったりして、この後一緒に行動することになったりして・・・単独行同士がにわかパーティを組むことがないわけじゃない。そんなことにでもなったら・・・いいのになぁ。 
                           
                           二十九の俺より少し年上の宮脇さんは、山で鍛えた体を揺すり、濃い顎髭を擦りながら、こう言うんだ。 
                          ・・・いやぁ、助かったよ。これは、実は大事な記念のツールでね。なくしたら、代わりは無かったんだ。君が拾ってくれて、よかった。何か礼をしなくては。 
                          ・・・いえ、喜んでいただけただけで、自分は嬉しいです。礼なんて・・・ 
                           宮脇さんは、それでは気が済まないと承知せず、『里』に降りたら、一杯やろうと約束してくれる。二人はそれまでの山歴を肴に旨い酒を飲んで、親密になって、宮脇さんは、次は一緒に登ろうと言ってくれる。 
                          ・・・淳浩って呼んでくれていいぞ。 
                          ・・・じゃ、自分も信彦って呼んでください。 
                          ・・・のぶひこじゃ長いな、ノブでいいか。 
                          「勿論です」  
                           思わず声が出た。そのとたん、我に返った。谷を渡る風が現実を明瞭にしていく。  
                          「俺って、バカだな」  
                           こんな妄想で、ふわんとした心地になって。  
                           そう、付き合うのなら、男が良かった。性的にも男を求めていることは否めなかった。もう、それを否定しては生きられなかった。でも、山に関しては、本当に登山仲間でいいのだ。昂る体の方は別で処理したっていいのだから。 
                           
                           とにかく、このボトルを持ち主に返してやりたい。だが、かなり急斜のこの谷川を登るには、ちゃんとした沢登りの装備が必要だ。無理をせず、ルートを行けば、先の山小屋で会えるかもしれない。ボトルに水を入れて、ザックの脇のポケットに突っ込んだ。ルートに戻るために崖を登り始めた。 
                           
                           
                           結局俺が通った山小屋では、宮脇さんとは出会えず、泊まった痕跡もみつからなかった。あるいは、テントを持参したのかもしれないし、下山途中だったのかもしれない。本来なら、拾得物は、届け出なくてはならないのだが、どうしても、自分で手渡したかった。どんな人なのか、知りたかった。あの谷川の水に、共に手を入れ、啜った。その瞬間を共有していたことを告げたかった。 
                           
                           山から帰ってすぐに訪ねようとしたのだが、連休ぎりぎりまで山にいるスケジュールにしてしまったため、次の日曜日まで待たなくてはならなかった。 
                           
                           土曜日の夜、グラスを二つ出した。取っておきのウイスキーを注ぐ。そこへ宮脇さんのボトルから、谷川の水を入れた。 
                           
                          「あのルートは、初めてだったんですか?」 
                          ・・・いや、何度か行ってるんだが、あの谷川に降りたのは初めてだったんだ。  
                          「俺もです」  
                          ・・・こんな出会いもあるんだな、ノブ、俺、少し酔ったみたいだ・・・ 
                          「どうぞ、ご遠慮無く、横になってください」 
                          ・・・そうさせてもらうか・・・  
                           ボトルを手に取った。そのサイドラインを指の腹でゆっくりと辿る。  
                          「淳・・・浩さ・・・ん」  
                           体が熱い。でも、水割りのせいではない。スエットパンツの前を引き下ろして、握った。 ボトルのボディに頬をすり付けながら、右手を激しく動かした。ぐいぐい扱いていくと、段々テンションが上がっていく。いつの間にか舌が銀色の肌を舐めていた。 
                           
                          「ああ、俺に、ぶっかけて下さい!」  
                           こんなこと、本人に言えたら・・・そんな妄想で、もう、破裂しそうだ! 
                           ボトルの中味を顔にぶっかけた。  
                          「あうっ!」  
                           右手の指の間から、白濁した熱い粘液が滴った。宮脇さんのボトルの水で、俺の体も・・・心も濡れた。  
                           
                           翌日の昼下がり、少し小ざっぱりした形で宮脇さんの住所を訪ねた。閑静な住宅街の一角に、その家は建っていた。4LDKほどであろうか、まだ新築といってもいいほど奇麗な和風の一戸建てだった。表札も御影石か何かに刻まれた立派なもので・・・気後れしてきた。きっと、届けても喜びはしないだろう。もし嫌な顔でもされたら・・・。 
                           
                           門から離れようとした。  
                          「あの、何か」  
                           急に女性に声を掛けられて驚いた。買い物帰りか、スーパーの袋を下げ、ショートカットでオレンジ色のワンピースを着た三十代半ば位の小柄なひとだ。化粧っ気が無く、少し顔色もよくなかった。もしかして、宮脇さんの奥さんかもしれない。 
                           
                          「いえ、その・・・この間の連休、これを拾ったものですから、住所が自分ちの近くだったんで、届けに・・・」 
                           
                           紙袋から出して、女性に差し出した。このひとに渡して、さっさと帰ろう。だが、彼女は、目を見張ってボトルを見つめたまましばらく動かなかった。 
                           
                          「どうしました?」  
                           尋ねた俺に、彼女は、ボトルを受け取って念入りに眺めてから唇を震わせた。  
                          「これをどこで・・・?」  
                           だが、答える前に、俺を家の中に入れた。外の構え同様に中も和風の造りだった。畳敷きの客間に通され、目の前に地図を広げられた。それは、あの山岳ルートの詳細な地図だった。指で示した。 
                           
                          「えーと、ここから、谷に降り、川に出たところで、上流から流れてきたのを拾い上げたんです」  
                           彼女は、俺が指差す所を食い入るように見つめた。どうも、様子が変だ。  
                          「あの、宮脇さんは・・・」  
                           言い掛けて、もしやと思いついた。彼女が深いため息をついた。  
                          「主人は一昨年の三月に出かけていって・・・今だに・・・」  
                           ああ。俺は項垂れた。  
                           
                           宮脇さんは、その時も何度も歩いているルートだから、単独でもまったく心配ないといって、笑って出かけたそうだ。そして、戻ってこなかった。捜索しても、ルートから外れて遭難したらしく、見つからなかった。雪が融けた夏になってからも、その行方は知れなかった。  
                           
                           奥さんは、宮脇さんの山仲間に頼んで俺が地図で示した場所から、谷川を遡って捜索してもらった。俺も行きたかったが、どうしても都合がつかなかった。宮脇さんは、あの場所から上流に五キロほどの斜面に引っかかっていた。雪渓に足を突っ込んだかで、谷に落ち、石で頭を打ったらしい。解剖の結果、ほとんど即死だったそうだ。苦しまずに逝ったということだけが、救いだと奥さんが言った。 
                           
                           葬式、黒枠のフレームの中で笑っている宮脇さんは、細面で切れ長のハンサムな男性だった。二年以上も経っていたのに、何故あの時ボトルが流れてきたのか。きっと、おロクさんになった自分を見つけて欲しかったのだろう。奥さんの元に帰りたかったのだろう。オカズにしてしまったことを密かに詫びた。近くあの場所にいって、あの谷川の水で水割りを飲み直そう。宮脇さんの冥福を祈って。                                       (完) 
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